思い立ったが随筆


 日々思う由無事を書き連ねています。



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2013/6/24 『思えば遠くへ来た……のかなぁ』第50回 ワンフェスに出ないタイプのフィギュア達:本郷新記念札幌彫刻美術館
 今月は夕張にでも行こうかなぁ。
 また一日散歩きっぷを使って、朝に出て12時過ぎ着の、帰りは最終が16時台という無茶な流れではあるけど、それはそれで良いんじゃないかな。
 と、考えていた時が私にもありました。

 マンションの管理会社から、前に頼んでおいた電灯の交換作業の知らせが入った。
 土曜に行って翌日に休みたかったのに。
 仕方ない、予定を変更するか。
 どこが良いかねぇ。
 今月はステージもあってやや忙しいからここの連休を上手く使えないとなると、遠出はやや難しいな。だとしたら、近場で済ませるか。

 という事で、札幌彫刻美術館に行き先を変更した。
 札幌彫刻美術館は前を通る事も何度かあったご近所美術館である。

 当日。
 昼過ぎに、家を出た。
 愛車ぽす太で北5条手稲通りを少し走ってから、三角山方向へ走る。
 急な坂を上り、住宅地の中に彫刻がボコボコ置かれた一画に到着ー。
 相当近い。
 ええと、建物が二つあるけど、入り口は、家っぽくない方か。
 人の気配が乏しいな。
 土曜日なんだけどねぇ。
 中へ入ると、チケット売り場という程きっちり用意されていない受付でチケットを買い、順路へ。
 特別展はコレクション展「『かお』を読む」だそうで、顔をモチーフに主に彫刻が並ぶ。
 ワンフロアにブロンズとかの像から、焼き物、石の像まで様々。
 作者はええと、本郷新。
 そもそもこの美術館が、本郷新記念美術館だから、常設展でない方が違和感があるレベル。
 ふむ、たまに妙にリアルなのがあったり、素焼きのはかなり擬化されて……というか、あんまり上手くなくない? なくなくなくない? 味があると言えばそうだけど、基本技量がブロンズ像なんかと比べてかなり低い感じするなぁ。
 なんか分かったような分からないような感じがするのが芸術の面白いようや面白くないようなところだな(極めていい加減)。
 この曖昧な感触は、見る目が出て来たらもの凄い感動とかするのかな。それとも、感受性は天性のものとして、感じたままで良いのかな。

 実のところ、前者であろうと思う。
 芸術的知識の全くない人間が、真に優れた優れた芸術作品を前にして電撃に打たれたような衝撃を受け膝を突き涙を流す、そのような「感受性」なんてものが、実在するだろうか。ロマンティックではあり、存在して欲しいと思うが、けれど実在はしないのではないか。
 芸術は作者の情動を、別の誰かに伝えるものである。
 例えば「財布を落として哀しい」という情動があったとして、芸術家ではない人間がこれを伝えようとした時、「私は哀しい」と言葉で自分の感情を説明する。
 詩人の場合、自分の情動を克明に観察、分析して記述する。語彙にそれが存在しない場合、比喩などを用いて表す。
 小説書きの場合、まず読者が読者自身と同一視出来る程に感情移入出来るようなキャラクタを作り、彼に財布を落とさせる。
 映画や演劇などの映像系の監督(もう少しミクロで言えば役者)の場合、小説書きと手法は似るが、具体的に動き、喋る事で財布を落とすシーンを描く。
 画家の場合、悲しむ姿を描く事もあれば、悲しんでいる時に五感と内面で感じたものを画像に翻訳して描く。
 音楽家の場合は画家に似るが、翻訳する先が音である。

 さてさて。
 ここで最も伝わりやすい表現は何であろうか?
 小説?
 いや、実はここに現れていない、シミュレーターである。
 体感ゲーム、と言っても良い。
 自分が実際に同じ体験をすれば良い。
 行動療法的発想で言うならば、同じ体験でも同じ感情に到達するとは限らないが、少なくとも他の技法よりは大枠で見ると到達し易い。
 大枠で、と、言った。
 どういう事か。
 他の手法は、どれもがある種の「翻訳」を経ている。
 感情を何か別のものに焼き直して伝えている。
 つまり、翻訳の法則性に違いがあれば、その人の言わば「感情言語」とでも言うべきものが別種であれば、伝わらない。赤を見て「情熱」と訳される場合と、「果実の酸味から来る清涼感」と訳される場合がある。
 ここに、感受性幻想は砕かれる。
 偶然同じ「感情言語」を持った相手には伝わるだろうが、「感情言語」は言語であるが故に学習を通じてのみ身に付く。
 全くの無知で無垢、つまり学習をしていない者が、感性のみ頼って芸術を鑑賞出来るなどというのは、まして無知故に真の芸術が分かるなどというような言説は、神話的ロマンチシズムに酔っているだけの空論に過ぎない。
 学ばなければ芸術は分からない。

 従ってよく分からんものを、まあ、良いのかも知れないなぁ、と思いながら観る行為は、全然正しい芸術鑑賞ではないが、しかし、休日の午後の過ごし方としては別に悪くはないのだ。自分個人で言うならば、感情言語の学習は多少なりともされている筈であるし。

 一通り企画展の展示を見たので、隣りの本郷新記念館に入る。
 二階建ての一軒家。
 元々、本郷新のアトリエだったものが、資料館兼美術館になっている。
 直筆の彫刻十戒とか、彫刻用具なんかも飾られている。それから、石膏像もいくつか。なるほど、まず石膏像を作ってからブロンズ像を作る、みたいなやり方もやってんだねぇ。
 そうだ、最近だと、石膏像さえ作ってしまえば、後は立体プリンタで金属素材にコピーしたり出来るのかな。
 作品が日本各地のどこに展示されているかの地図もある。
 大通公園にある像もそうなのか。
 まあ、印象に残る程でもないけど、逆に言うと街の風景に溶け込んでるって事か。
 絵も少し描いてるんだな。
 この絵は……教育文化会館の緞帳に描かれた……あ、見たことある、この白樺林。緑色の月のヤツだ。
 何とはなしに札幌内に浸透してるんだな、この人。
 まあ、作品の良さとかはさほど分からんのだけどね。


<出費>
入館料:300円
計:300円


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