思い立ったが随筆


 日々思う由無事を書き連ねています。



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2017/11/30 『思えば遠くへ来た……のかなぁ』第103回 キンキンのルーム:北海道博物館 第9回企画テーマ展「弥永コレクション」

 弥永北海道博物館が、2014年に閉館した。
 その所蔵品が北海道博物館に寄贈された為、「弥永コレクション」として企画テーマ展が開かれる事になった。

 弥永北海道博物館。
 当企画のバックナンバーを辿ってみると、2012年の6月に一度行っている。
 というか、その一度しか行ってはいない。
 のだが、別の縁があって知り合った人がこの館長と親戚関係だったりして、微妙に印象に残っていた。
 まあ、閉館に気付かない程度の関心ではあるが。つか、何か「やる」「始まった」情報は入っても、「やらない」「終わった」情報って入らんよね。

 北海道博物館も、弥永北海道博物館も行った事はあるが、両方が合わされば話は別、行った事がないと考えて良い。
 サザエさんのアニメにおいて
「ワカメちゃん、栗は好き?」
「すきです」
「じゃあ、羊羹は?」
「だいすきです」
「じゃあ栗羊羹は好きね」
 というようなやり取りがあったが、そういうものではない。
 合わせた時点で別物である。
 これが例えば、お茶漬けとすき焼きが好きな人がいたとして、すき焼きの残った肉や野菜や豆腐の切れ端を汁を切り気味にご飯に載せて、かなり濃くしたお茶をかけ、わさびをきかせたすき焼き茶漬けなんてものを出したとしても、好きとは限らないだろう。

 ――ある程度考えてしまうと、まずいものになりにくい。

 そう、創作物において、まずいもの描写というのは、意外と難しい事があって、
「食べられないものを使って表現する」
 というのは当然に下策だ。
 例えば、ご飯の中に金属のネジが入っているようなもの。汚物がかかっているようなもの。
 そんな物を作る理由がない。そもそも食べ物とは言えない。
 そもそも、まずいものを口にするシチュエーションに必然性がなければ、ストーリーから浮いてしまう。
 端的に言って「ヒロインとかが料理下手だけど、一生懸命作った」シチュエーションにおける、

・見た目がメチャクチャ
・異臭を放つ
・食べただけで卒倒する味

 等の描写は、前提である「一生懸命作った」に疑義が生じる。
 料理は一般的現代人が唯一共通して「材料から作成できる」カテゴリと言って良い。
 それ以外のものは、作れる人はある程度の専門的な知識を有している。具体的な状況を考えるならば、無人島に漂着した時、自然物だけで作れるものを想定した場合、衣食住のうち、何とか自力で作るイメージが湧くのは食だけであるという事である。衣類は糸や毛皮の加工技術の習得を要し、住居は洞窟を見つけて住むとか「作る」に辿り付けない。唯一食だけは、毒の見分けや火起こしなどのポイントはあるものの、どうすれば食べられるようになるかの筋道は浮かぶ。
 かくまで一般的である料理行動で、そうでないものを作るには、それなりの必然性がなければ、読者の違和感はぬぐえない。

 例えばうる星のラムの作る料理は、「まずい」カテゴリである。
 それが「どうまずいか」というと、「とにかく辛い」。
 そこに必然性はあるか?
 この場合、ある。
 彼女は異星人であり、電気を発するという特性を持つ。辛さは痛覚刺激に通じると言い、感電は一種の痛みを想起させる。つまり、痛覚に慣れた彼女が自分の感覚において「おいしいもの」を作ると、地球人には「とてつもなく辛い物」になる。
 この因果関係に何の違和感もない。論理的に繋がっている。

 ジャイアンシチュー。これもまずい料理の代名詞である。
 この場合、ジャイアンは自分で食べて自分でうまいと言っている事もあり、自作物の欲目と、若干の味音痴が推定される。リサイタルでの衣装や、歌唱力からは、趣味の悪さと、それが他人にも共通するであろうと考える共感能力の未成熟が伺える。
 小学生に過ぎない彼の料理は、雑草を潰して色水にする辺りの感覚からさほど遠くはない。材料としてたくあんや大福が入っているが、限られた小遣いから材料費が出ているとは考え難く、親の経営する雑貨店の売れ残りやら、家の買い置き食材やらからそれっぽいものを拝借したのだろう。
 前提にあるのは「うまいものを食べさせて、感謝されたい。その対価に金品を入手したい」という辺りの感覚。そして、それを作る調理能力、経済力、共感能力の欠如。料理以外のエピソードによって、それらの多くは容易に推定され、設定に全くと言って良い程ぶれはない。

 シナリオやグラフィックの細やかな描写に定評のあったPS版『トゥルーラブストーリー』の弥生の弁当も、リアリティのあるまずさがあった。
 焼きすぎた魚、塩を付けすぎたおにぎり等、料理失敗の流れが想像できる。
 おにぎりを失敗させる方法に、塩の付けすぎを選ぶのは大変理にかかっている。塩加減、塩梅は料理慣れしていないと難しく、また、教え手が直感で味付けをする人だった場合、グラム単位の説明が出来ない。更に、分量が規定されていても、均等に配分しない事で極端にしょっぱいポイントが出る。そして、塩は物理的に摂取可能な量の中に致死量がある為、「生理的に食えない」量のラインを、外見的に違和感が出る前に超えてしまう。
 人に食べさせるなら味見をせよ、というのは実に正論であるが、弁当の場合はこれが若干難しくなり得る。限られた時間で、適切な分量を作らなければならない。弁当箱の容積は、意外に大きい。慣れないと深さを見誤る。冷ます必要があるので、半端なタイミングでの継ぎ足しはし難い。味見予定のものも詰めてようやく埋まる場合がある。
 キャラクタの性格から、何の準備もなくやったとは考えられない。恐らく前日、前々日に「親に教わりながらの試作品は成功済み」、という可能性が高い。
 そして、準備万端、自分一人で作って、一応の見た目にはなったが、細かな部分の手際や加減が足りず、残念な弁当になった、と。
 これも因果関係は繋がっている。推測できる。

 だが、無計画にまずいという結果だけを出そうとした場合、そこにあるのは「作者がキャラクタにまずいと思わせたい」という意図だけであって、作った方のキャラの行動や感情が崩壊する。
 おにぎりにチョコレートを入れたり、炭になった卵焼きを「おいしいから食べなさい」と無理矢理に人に勧めるような描写をするならば、常日頃からそのようなキャラでなければならない。つまり、悪食か、善意をはき違えているか、そしてどうであれ共感性は皆無という、ヒロインなんかにはならないイロモノキャラである。
 こういうのは、決しておろそかにしてはならない、神は細部に宿る。

 弥永コレクション。
 展示期間は、後数日。
 目の留まったのもこれも何かの縁だろう。
 袖ふれあうも他生の縁
 袖ふれあうも多少の縁
 袖フレアうおおおおお! タショウ・ノエン!
 今日こそお前の最期だ! 父の敵、タショウ・ノエン! 必殺袖フレアを受けてみよ!
注意)袖フレアとは、袖竜を編み出す前の番長の技

 行ってみるか。

 北海道博物館は、JRで森林公園前から行くルートと、地下鉄で新さっぽろから行くルートがあるが、丁度ドニチカキップが使える日だったので、地下鉄経由で行く事にしよう。
 出発。

 地下鉄に揺られて新さっぽろへ到着。
 バスターミナルに行くと、丁度バスが来ていたので乗り込む。
 北海道博物館まで行くバスは本数少なめだからラッキーだったな。

 数日雪が積もってたけど、今日は雨がぱらついてる感じで、雪は融け気味。
 これぐらいの雪だとでも、もう、自転車乗れないんだよな。
 雪は多少でも残ってたら滑るし、日陰だと多めに残ってるし、車輪にはくっつくし。
 さてさて到着。
 門に弥永コレクション展のポスター貼ってあるな。
「好評につき期間延長 12月24日まで」
 なんだ、12月までやるのか。
 年末は落ち着かないから今でいいけど。
 しかし、そんなに人気あるのか。

 入り口から入って、チケットを買って展示スペースへ入る。
 マンモスに、アイヌ文化に、交易の資料類に、常設展示は見たから簡単に、と。
 どこだ、弥永コレクション。
 二階かな。
 ええと……あれ。
 ないな。
 と……ああ、こっちか。
 って、なんだ、常設展示の区画出ちゃった。
 無料公開かよ!

 ふむ、ポスターに砂金の写真があるな。
 ……上手い。
 金を持ち出すと、確かに見に来る人が増える気がする。
 単に金銭を求める人の欲望がどうのこうのというのもあるけれど、劣化しにくいからどんなに古い物でも一定のものが期待できるというのもあるかも知れない。

 展示スペースは、と。
 広々したワンルーム。
 壁沿いと、床に置いた展示台との併用。
 思ったよりも展示点数が少ない気がするな。
 まずは、館長の弥永芳子氏の略歴。
 ……女性なのか。
 以前に弥永博物館に行った時にいた男性は誰だったんだろう。家族?
 大正8年生まれ、コインマニアが高じて、材料の金属に興味が向き、採集・採掘現場に足を運ぶうちに地学、と、興味が広がっていったコレクター。
 コインに関しては、書籍を出したり、専門誌に論説が載ったりしている。
 改めて確認しても、いわゆる学者ではないのだな。
 好事家、蒐集家、ディレッタントという言葉が適切か。

 コインに……ああ、あった、砂金。
 ちょっと大きめなのとかあると、嬉しくなるぐらいの細かさだよな。
 ゴールドというと、親の判断で100グラムぐらい買ってあったっけなぁ。祖母から将来の為に、と貰った20万円ぐらいだったが、今の相場だと50万円ぐらいになってるな。20年以上前の話ではあるが、意外と金の相場も動くんだな。ちなみに、その時のゴールドは実家に置きっぱなしである。

 他の展示は、と。
 南の方の貝類もあるけど、蒐集場所や時期がないので、資料価値はない、と。ふむ、そういうものだろうな。でも色とりどりで綺麗だな。
 貝が貨幣として使われた最初だとは聞くが、こういうのを見ていたら、確かに宝石的価値を見いだす気がする。
 もっとも、現在使われる貝貨は、細かい奴を紐で繋いだようなので、綺麗という程でもなかった気がする。まあ、角が生えてたりしても、流通過程で折れるから、効率化も進んだのか。
 どれも何となく興味が湧くが、それほど深い知識がないからな。解説が少ないと分かりにくい。
 大体、博物館的展示って、解説が読むのが楽しかったりするよね。
 ふうむ……お、琥珀だ。
 うわ、綺麗だな。
 これは綺麗だな。
 琥珀というと、もう、反射的にコブラのエピソードが浮かぶ。何かの機会があって、劣化しない事がはっきりしていたらウイスキーに沈めてみたいものだ。あ、虫入りは勘弁な。
 ――後から弥永北海道博物館に行った時の文章を読み直してみたら、自分、やっぱり琥珀に反応していた。
 うん、まあ、そうだろう。

 一通り見たので、帰る事にする。
 この前どうやって帰ったかな……。
 博物館前の停留所は……時間が空きすぎるから、開拓の村の方から? いや、それは本数が大して変わらん気がする。まあ良いや、下まで降りよう。
 10分か15分か、ぶらぶら歩いて野幌森林公園から出てすぐのところにあった停留所で、すぐバスが来た。そうか、ここまで来ると多いな。むしろ、JRの森林公園駅まで徒歩圏内つーことだな、こりゃ。


<出費>
交通費:520円 (琴似―320―新さっぽろ ドニチカ切符 札幌市営地下鉄)
交通費:420円 (新札幌―210―北海道博物館 厚別東小学校前―210―新札幌:JR北海道バス)
入場料:600円 (総合展示室:北海道博物館)
計:1,540円


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